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ヨガと瞑想

2018.3.19

アシュタンガヨガの練習で何が得られるのか?

渡邉 寧 | 株式会社かえる 代表取締役

アシュタンガヨガのお弟子さん達の考え

ちょっと前に「グルジ 弟子たちが語るアシュタンガ・ヨガの師、パッタビ・ジョイス」という本を入手しました。朝の練習でお世話になっている渡辺えり子先生が表参道のスタジオで共同購入するというので、参加させてもらいました。


「グルジ -弟子たちが語るアシュタンガ・ヨガの師、パッタビ・ジョイス-」

元々、翻訳本を出すクラウドファンディングで、半年くらいかかりましたかね。頂いた本の分厚さを見てびっくり。800ページを超え、本の厚みは5.5cmの超大作になっていました。

「ウーム、これは積読かなー」と思って本棚に入れてあったんですが、パラパラと読んでみるとこれが面白い。

32名のグルジの関係者・お弟子さんのインタビューで、アシュタンガヨガとグルジに関する1人1人の考えが生々しく具体的に書かれています。自分の練習と照らし合わせて考えると「そうそう、やっぱりそうだよな」と思う所が多く、同時にアシュタンガヨガに対して少しずつ異なる多様な考えが見られるのが面白い。

なぜ練習するのか?

よく人に「なんでヨガやってるんですか?」と聞かれます。

「少しでも興味があるのなら、やってみたらどうですか?」と言うのですが、まあ、言葉でヨガの練習をする理由を説明をするのは難しいですね。
「健康の為です」とか「ダイエットの為です」とか、そういう分り易い説明が出来ると良いんだけど、中々そうもいきません。

そもそも、アシュタンガヨガっていうのは何なのか、と思うわけです。何の為に朝早くから、毎回毎回同じシークエンスの練習をしているのか、と。これは一体何を目指しているのか?

で、それに対する答えがあるのかというと、有ると言えば有るし、無いと言えば無い。

―グルジにアシュタンガヨガのシステムの起源について聞いたことはありますか?

「ありますよ(笑)」

ー満足のいく答えはもらえましたか?

「もらえませんでした(笑)」

(出展 「グルジ」グラム・ノースフィールドのインタビューより)

他のお弟子さんのインタビューを読んでも、グルジはアシュタンガヨガの練習について、明確な説明を細かくしていたわけではなかったようです。

多くのお弟子さんたちは、「自分が何の為に練習をするのか」完全に理解してから練習を開始したわけではないですね。「そこには何かがありそうだ」という直感を基に練習を開始し、練習を続ける中で「これが一体何で、何の為に練習しているのか」を自分なりに掴み取って行ったという感じでしょうか。

2種類の異なる「学び」

「なんだかわからないけど何か大切なことがありそうだ」という直感をトリガーとした学び。そして、そこに先生は居るんだけれど、先生が明確に詳細に教えてくれるわけではないという伝達の仕組み。

こうした「学び」は、現代の多くの「学び」とは異なります。

現代の学びはどちらかと言うと「買い物」に近いですね。この商品・サービスを買うと、○○というベネフィットがある。値段は○○円である。お買い得なので買う。
そういう学びの選択の仕方。スキルや能力を身に着ける場合は、こうした買い物的な学びの選択行動になりがちのように思います。

それはそれで良いと思うし、否定するつもりはないのだけれど、あらゆる学びがそういうものであると考えるのは間違っている。
なので「少しでも興味があるのなら、やってみたらどうですか?」になるわけですが、そんなこと言われてもよく分かりませんね。

ただ、アシュタンガヨガに限らず、他のシステムのヨガもそうだと思うんだけど、ヨガを始めるきっかけは「買い物」的であることが多いと思います。

「最初は、健康になれるエクササイズのシステムだと思い、完全に自慢するためのものでした」
(出展 「グルジ」 ジョン・スコットのインタビューより)

自分の場合も、アシュタンガヨガを始めたのはウェイトトレーニングの切り替え目的。丁度ヴィパッサナー瞑想を始めた頃に、「どうせ身体のトレーニングをするのなら、アシュタンガヨガみたいな負荷の高いヨガにした方が良いな。瞑想に近いと聞いているし」と思って始めたものでした。

しかし、アシュタンガヨガの場合、そうした買い物的動機づけから始まった学びも、どこかでモードが変わります。「エクササイズだと思って始めたけれど、どうももう少し深い何かがありそうだ」という感覚。

そして、どうして学びのモードが変わるかというと、それは、毎回の同じことの繰り返しの中に色々な意味が埋め込まれていることに、少しづつ気づいて行くから。

学びを促すシステムとしての「練習」

アシュタンガヨガの練習には様々な「学び」が埋め込まれています。

「きちんと意識していれば、練習の中に知恵や教えがあることがわかります。大事なのは、耳を傾けるようにすることです。練習の形式やメソッドには様々な教えが含まれています。表面的なものの奥にあるものを気をつけてみていれば、「なぜここから始めるのだろう?」「最初に何をするのだろう?」「次は何をするのだろう?」「シークエンスを通してそれぞれがどのようにつながっているのだろう?」というような疑問が浮かんでくるはずです」
(出展「グルジ」 チャック・ミラーのインタビューより)

この、チャック・ミラーという人はYogaworksを作ったアメリカ人で、youtubeでアシュタンガヨガのビデオを検索すると1993年に作ったグルジのレッドクラスのビデオが出てきます。

本人もビデオの中で生徒の1人として練習しているんですが、異次元の身体の動かし方をしているので、自分は初めてこのビデオを観た時は本当に驚きました。

そんなアクロバティックな練習をするチャック・ミラーですが、彼のインタビューを読むと、彼がハードな身体運動の奥にある哲学的なものに重きを置いていたことがよく分かります。

練習は最初は挑んできます。練習者の強さが試されます。難度の高いポーズで平静でいられるか、集中していられるか。しっかりとグラウンディングして落ち着いていられるか、という強さの試練。

同時に非暴力的であることが求められます。練習ではすぐに怪我をします。怪我をするということは、何かがおかしいということを意味します。身体の使い方がおかしいとか、準備が出来ていないところで無理なことをした、とか。

そうした1つ1つのアーサナに対する向き合い方と身体の強さが変化してくると、次に「フロー(流れ)」に対する自覚が生まれてきます。

「最初はアーサナに関してだけですが、ドリシティ、呼吸、バンダという練習の内的側面によって、真に純粋なものが生まれる」
(出展 「グルジ」 デヴィッド・スウェンソンのインタビューより)

呼吸と視点のガイドのもと、ただただ身体とエネルギーが流れていく感覚を保てるか。

今、自分が毎回の練習で試みているのはそういうことです。グルジのお弟子さん達が皆、それぞれ表現は違えど似たようなことを書いているということは、この練習のシステムの中には、そうした学びが埋め込まれているということなんだと思います。

「流れ」の自覚化

量子力学では、電子のようなミクロな世界では「物質」というものは存在せず、あるのは「状態」だけで、波のような「波動性」があるだけと考えます。

ブッダも2千5百年前にかなり近いことを言っていたと言われています。

「ものはみなカラーパという微粒子から構成されており、そのカラーパはたえず生まれては消えるという。つまり、連続的な波動の流れ、絶え間ない微粒子の流れ、これが「もの」の究極の真相なのである」
(出展 「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」)

こうした古くて新しい「波」として世界を見る見方は、人と社会に対して新しい認識を提供してくれるように思います。

卑近な例で言えば、何か腹立たしいことがあった時、多くの場合、その腹立たしさを誰かにぶつけたり、腹立たしさを引き起こした原因を考えてそれを取り除こうとしたり、他のことをして気を紛らわせようとします。

しかし、「波」としてこの状態を捉える人は、腹立たしいことがあった場合、それをただ観察します。なぜなら、その感情は波の中で生まれては消える泡のようなものにすぎず、その腹立たしさをトリガーとして反応することは波の流れを荒らすだけだからと考えるからです。

瞑想もアシュタンガヨガの練習も、つまるところ、この「流れ」の感覚の自覚化の練習のように思います。

身体の場合、自然な「流れ」が妨げられると病気になります。例えば、血管が狭窄すると虚血がおこり、冠動脈であれば心筋梗塞などの致命的な病気になります。

身体と同じように、心にも「流れ」があります。それは、概念的に言えば長く安定して続く集中力であったり、穏やかに続く感情の状態だったりします。そして、その流れが途絶えたり澱んだりすると心の問題が起こります。

「私」というものは、確固とした静的な存在としてあるわけではなく、様々な「流れ」が組み合わさった「状態」であると考えてみる。そのことに練習を通じて気づいて行く。

そういうことなのかな、と今は思っています。

13歳でヨガの練習を始めたデヴィッド・スウェンソンは

「すべての瞬間に感謝の気持ちでいっぱいです」
(出展 「グルジ」 デヴィッド・スウェンソンのインタビューより)

と言っています。

ヴィパッサナー瞑想で最後に行うメッターの瞑想の感覚なのかな、と思うのですが、自分の中の安定した心の「流れ」の中に「感謝」を流し続ける。個人の流れは、より大きな社会の流れの一部でもあるので、息を吸って息を吐くように、自分の感謝の流れを外に出すことで、社会の流れを安定させることに貢献する。

個人の練習はそのようにして世界と繋がっているのかな、と思います。

著者プロフィール

渡邉 寧YASUSHI WATANABE

慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡りマーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立し、現在は「人と組織が変わること」に焦点を絞ったコンサルティングに取り組んでいる。プライベートではアシュタンガヨガに取り組み、ヨガインストラクターでもある。 株式会社かえる 代表取締役

プロフィール詳細

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