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6次元モデル(異文化を理解するフレームワーク)ブログ歩きながら考える
2025.10.16
AI事件報道への違和感:統計と印象のズレから見える文化の話 – 歩きながら考える vol.148
渡邉 寧 | 京都大学博士(人間・環境学)
今日のテーマは、AIが原因で自殺などの事件が起こっているという報道に関して。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題をラジオ感覚で平日(月~金)毎日お届けしています。
こんにちは。今日は移動時間を使って、ちょっと気になったニュースについて考えてみたいと思います。
10月11日の毎日新聞の記事で、「生成AI利用者の自殺や殺人事件」の報道が米国で相次いでいるという話を読んだんですよ。アメリカで、AIの利用者が自殺したり、自傷行為をしたり、殺人事件を起こしたりという事件が報道されていて、その背景には米中のAI覇権争いがあるんじゃないかと。規制よりも開発を優先する姿勢が問題なんじゃないか、という内容でした。
で、米上院は9月に公聴会を開いて、AIによる子供の被害について調査したと。EUも去年の5月に、弱者の脆弱性を悪用する行為を禁じるAI法を作ったそうです。日本はこれからですね、という話になっていました。
記事は記事でいいんですけど、でも、これって基本的には超違和感しかないんですよね。
統計的に考えると、ほとんど何も言えない話
この手の話って昔からあるじゃないですか。アダルトビデオを見ると性犯罪が増えるとか、暴力的な映画を見ると犯罪が増えるとか。で、多分その度ごとに、統計の専門家が全部否定して回ってるんだと思うんですよ。AIに関しても、多分同じ構造だと思うんです。
なんでかっていうと、例えば、そのAIとチャットしたせいで自殺したって話があったとすると、まず考えるべきは「そもそも自殺する人の割合」ですよね。AIの理由以外で自殺する人の割合っていうのは、常に一定程度あるわけです。
で、AIを使ってる人の数が今どれぐらいいるか。ChatGPTだけでも日次アクティブユーザーが約1億2000万人いるそうですから、全体では数億人規模になるでしょう。
その数億人の中で、報道されてる事例が数件。そもそもかなり稀な話じゃないですか。しかも、AIを使わなかった場合と比較した対照群のデータもない。これって、統計的に見れば、ほとんどノイズレベルと判断する方が妥当でしょう。ランダムでも起こりうる範囲です。
で、こういう話をすると必ず出てくるのが「いや、報告されてないケースもあるでしょう」っていう反論なんですけど、それを仮に10倍、100倍に見積もったとしても、数億分の数千とかになるだけで、依然としてノイズに見えますね。たまたまAI使ってたことが目立っただけで、因果関係を言えるレベルになるとは思えない。

なぜ人は少数の事例に強く反応するのか
じゃあ、なんでこの手の話が繰り返し繰り返し出てくるのか。
それは、統計の計算の問題じゃなくて、人間の印象の問題なんだと思うんです。人間って、全体の母数とか発生率といった統計的な情報よりも、目の前の個別の事例に強く引きずられる傾向があるんですよね。
数学的に言えば、これはベイズの定理の問題に見えます。ここで考えるべき事前確率は「AIが自殺の原因である確率」ですが、さっき書いたように計算すればそもそもこれが極めて低い。
数億人がAIを使っている中で、数件の事例が報道されたとしても、この「AIが原因である」という事後確率はほとんど更新されないんです。なぜなら、AI以外の理由で自殺する人がおり、その基準率に基づく母数が大きすぎるから。
報道されているような個別の事例が出てきたからといって、「AIが危険である」と言える確率は、数学的にはほとんど変化しない。でも人間の直感はそう働かないですよね。
「AIとチャットした後に自殺した人がいる」という事実は衝撃的で印象に残る。それが統計的にどれぐらいの意味を持つかとは関係なく、強いインパクトを受けてしまう。
これって理解できるんですよ。だって、人間の認知の構造がそうなってるんだから。
で、ここからが今日一番話したかったポイントなんですけど、どれぐらいそのAIっていうのが人を危険にさらすような気がするのか、っていう印象には、多分、文化差があるんじゃないかと思うんです。
文化差:なぜ東アジアの人はAIを怖がりにくいのか
おそらく、欧米の方はですね、AI脅威論っていう論点が強いんじゃないかなと。で、東アジアの方が、そこまでではないんじゃないかと思っています。
なんでそう思うかっていうと、この話は度々言ってますけど、実験をするとですね、AIとのチャットに対して、好意的な評価をする割合が、東アジアの人の方が多いんです。
で、なんで多いかっていうと、それは、物にも心があるというふうに捉える文化的背景があるからだと言われています。自然物であったり、山だったり、川だったり、そういうものにも心が宿るという考え方が影響しているんじゃないかと。
人間とそれらを比べてどちらが上か下かという話ではなく、単にそういう状態が存在していると考える文化が東アジアには根強いという議論がなされています。だから、AIに対しても「まあ、AIにも意識はあるよね」という感覚で受け入れやすいんじゃないかと思っています。
一方で、欧米の見方はちょっと違うという議論がなされています。欧米だと、人間以外の存在について、それがどれだけ人間に似ているかという観点で捉えるということが言われています。そして、人間を頂点としたうえで、自然物や人間以外のものを序列付けするという傾向があると言われているんですよね。人間に近づいてくると、そういう存在に対してはリスクや不気味さを感じるということが言われています。
で、いまAIって対話的に人間に非常に近い形になってきているじゃないですか。そうすると、脅威というふうに捉えられる傾向が、多分欧米で発生しているんじゃなかろうかというふうに思うんですよね。
東アジアの人にとっては「物にも心が宿る」という感覚の延長線上でAIを捉えられるから、そこまで脅威に感じない。でも欧米の人にとっては「人間に近いもの」として捉えるから、逆に不気味だったり脅威だったりする。同じAIを見ていても、感じ方が違うんじゃないかと思うんです。こういう研究が今蓄積され始めています。

まとめ:リアリティを感じる対象には文化差がある
というわけで、今日はAI事件報道から始まって、統計と印象のズレ、そしてそこに潜む文化差の話をしてみました。
今後も、こういう「統計的に考えると大した話じゃないもの」が大々的に社会問題として取り扱われるケースは続くと思うんですよね。それにリアリティを感じるのは、人間の認知の構造なんで自然なこと。でも、どういう話にリアリティを感じるかには文化差があるっていうのが、今日一番伝えたかったポイントです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!
著者プロフィール
渡邉 寧YASUSHI WATANABE
慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡りマーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い。 経歴と研究実績はこちら。
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