今日は「AIと動機づけ」の話をしたいと思うんですよね。
私は研究の仕事でAIをよく使うのですが、知らなかった概念や分析手法をAIと話しながら学んでいくのは、本当に楽しいんですよ。自分が上達していく感覚があって、幸福度が上がった実感がある。ところがその一方で、AIのせいで「上達を楽しんでいる場合ではない」という空気も強まっている気がするんです。同じ道具なのに、この矛盾は何なのか。今日はこれを、動機づけの理論を一つ使って考えてみたいと思います。
何のために頑張るのか——マスタリーとパフォーマンス
心理学に達成目標理論という枠組みがあります。人が何かに取り組むときの動機を、大きく二つに分ける考え方です。
一つはマスタリー。自分が上達すること、分かるようになることを目指す動機です。比べる相手は昨日の自分で、「前より理解できた」が報酬になる。
もう一つはパフォーマンス。他人から高く評価されること、良い結果を出していると見なされることを目指す動機です。評価の基準が自分の外にあって、「良い評価を得られた」が報酬になる。

さらにこの理論では、それぞれに「良い状態に近づきたい」のか「悪い状態を避けたい」のかという軸を掛け合わせて、動機を四つに分けます。もっと分かりたい。分からなくなるのが怖い。高く評価されたい。低く評価されたくない、失敗したくない。
で、ここからが大事なところなんですが、研究の蓄積では、マスタリーの動機は学ぶ楽しさや持続的な意欲、ウェルビーイングと結びつきやすいとされているそうです。逆に一番苦しいのは、パフォーマンスの回避——「低く評価されたくない」「失敗したくない」で動いている状態で、不安が高く、意欲も損なわれやすいと言われています。同じように頑張っていても、どの動機で頑張っているかで、幸福度は全然違うということなんですよね。
AIは、マスタリーの最高の道具である
この枠組みで見ると、AIというのはマスタリーの動機にとって、ちょっと信じられないくらい良い道具だと思います。
分からないことを、分かるまで、何度でも聞ける。相手の時間を奪う気兼ねもない。かつては、何でも聞ける先生や優秀な研究者のコミュニティといった、極めて恵まれた環境にいる人にしか手に入らなかった学びの条件が、全員に配られた。実際、私自身、マスタリーの動機でAIを使っているときは、はっきり幸福なんです。
話がここで終わるなら、「AIは人を幸福にする」で決まりです。でも、そうはいかない気がするんですよね。

AIは競争環境のほうも変えてしまった
きっかけは査読でした。論文を投稿してから返ってくるまでの時間が、数年前より明らかに長くなっている実感があるんですよ。調べてみると、学術誌への投稿数が急増して査読が逼迫しているという話が、あちこちから出てきています。
なぜか。参入の壁が崩れたんだと思います。英語で書くという言語の壁も、専門知識へのアクセスの壁も、AIが劇的に下げた。私の学びを楽しくしてくれたのと同じ仕組みが、世界中の書き手を同じ土俵に連れてきたわけです。そしてこれは研究の世界に限った話ではなくて、言語や専門性の壁に守られてきた市場では、同じことが起きうると思うんですよね。
しかも、増えているのは参入者の数だけではないんですよね。AIによって能力を拡張された人が、世界中で一斉に増えている。一人ひとりのアウトプットの量も速度も底上げされているわけです。競争相手が増え、しかもその全員が強化されている環境では、「とにかくパフォーマンスを出さないと」という意識は、どうしたって強まるのではないかと思うわけです。
ここで理論に戻ると、動機づけの研究では、パフォーマンス回避の動機は、失敗への恐れと「自分はうまくやれそうにない」という見通しから生まれるとされているそうです。全体の水準が上がり、求められるパフォーマンスの基準が上がるほど、「自分はうまくやれそうにない」と感じる人は構造的に増える。つまりAIは、一人ひとりの使い方とは無関係に、環境の側からパフォーマンス回避の条件を量産しているのではないか。これが今日の仮説です。

同じ道具が、動機の追い風と向かい風になる
整理すると、こういう構図になります。個人のレベルで見れば、AIはマスタリーの動機を支える最高の道具で、幸福を押し上げる。ところが環境のレベルで見ると、AIは競争を激化させ、人を一番苦しい動機——パフォーマンス回避——に追い込む条件を作っている。同じ技術が、動機の追い風と向かい風を同時に吹かせている。だから「AIは人を幸福にするのか」という問いに、一言では答えられないんだと思うんですよね。
これはまだ仮説です。実際にどの動機で働いている人がAIで幸福になり、誰がしんどくなっているのか、これからちゃんと調べてみたいと思っています。
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