こんにちは。今日は、先日参加したシンポジウムでの経験から考えたことを、歩きながら話してみようと思います。行くかどうか直前まで迷っていたイベントだったんですが、結果的にとても貴重な時間になったんですよね。その理由を、自分なりに掘り下げてみます。
丸一日つぶすかどうか、直前まで迷った
今週、AI関連のシンポジウムに参加してきました。AIが社会や教育、特に高等教育にどういうインパクトを及ぼすのか、というテーマの対面イベントです。
実は、行くかどうかすごく迷っていたんです。というのも、今ものすごく忙しくて。目を通さなきゃいけない資料、文章の執筆、資料作成、論文の執筆と、アウトプットしなければいけないタスクが山ほど溜まっている状態なんですよね。丸一日つぶしてシンポジウムに行くのは、正直かなり厳しいなと。
ただ、文章や論文を書いていても、なんだか気が滅入るというか、頭がなかなか先に進まない感覚がありまして。気晴らしにもなるかなと思って、思い切って参加してきました。1日タスクが進まなくなるけど、まあいいか、と。
で、登壇者の話やパネルディスカッションを聞きながら、強く思ったことがあったんです。内容が面白かったこともさることながら、どういう論点にどういう論陣を張っているのかを丁寧に考えながら聞く時間を、丸一日過ごしたんですよね。そうしたら、終わったときに頭がすっきりした感覚があった。このテーマについて自分はこう考えているな、という思考がまとまって、アウトプットしたい感覚が湧いてきたんです。
さらに不思議なことに、ずっと読まなきゃと思いつつ後回しにしていた本を、突然ちゃんと読みたくなりました。一行一行、飛ばし読みせずに丁寧に読んで理解しようと思った。これは凄いことです。普段だったら素早く読んで、内容の概略をざっと理解してしまいたい、と思うわけですが、この時は一行一行理解したいと強く思った。頭の時間軸やスピード感がリセットされた感覚がありました。

高速で走ること自体は、問題ではない
なぜこんなにリセットされた感覚があったのか。最近よく参考にしている自己決定理論(Self-Determination Theory)で考えてみたいと思います。自己決定理論の中には基本的心理欲求理論(Basic Psychological Needs Theory)というミニ理論があって、そこでは、人の幸福やモチベーションには自律性・有能感・関係性という三つの心理的欲求が満たされることが大事だとされています。
まず前提として、現代社会で高速化するのは、合理的な選択というより、もうそうせざるを得ない帰結だと思うんです。「赤の女王仮説」ではないですが、周りのみんなが走り続けている以上、自分だけ立ち止まれば相対的に後退してしまう。走り続けるしかない構造の中に、私たちは居ます。
そして、高速で走ること自体が必ずしも悪いかというと、そうでもないと思うんですよね。短時間で質の良いアウトプットを出し続けられることは、有能感につながります。そして、そういう競争に参加するという決定を自分で行っているのであれば、自律性も担保されている。この状態であれば、全速力で走り続けること自体が幸福感を落とすわけではないはずなんです。
では、何が問題なのか。

落とし穴は、インプットの側にあった
私の場合、落とし穴はインプットの側にあったのだと思います。
アウトプットを高速化しようとすると、それを支えるインプットも高速化しなきゃならなくなるんですよね。このスピードでアウトプットを出す、と決めるのは自分です。でも、その速度を実現するためには、インプットをこれくらい高速化しなければいけない、そのためには飛ばし読み、スキミングをするしかない、と逆算的に決まっていく。アウトプットの高速化は自分で選んだのに、インプットの高速化は選ばされているわけです。自律的な選択ではない。
インプットに余裕があるうちは、選択肢があります。じっくり深く読み込んでもいいし、関連する情報を調べながら読んでもいいし、疑問点を考えながら読んでもいい。読み方を自分で決められる。ところが、インプットの速度を上げざるを得なくなると、この余白が消えて、読み方の選択肢が消えます。自分がペースを決めていたはずが、いつの間にか「ペースが自分を決める」というトレッドミル状態になる。これは自律性の喪失です。
そして、さらに速度を上げると、今度は全部に目を通すこと自体を諦めることになります。スキミングで拾い読みするしかない。すると「ちゃんと読めていない」「全部は理解できていない」という不完全な感覚が生まれて、今度は有能感が削られていく。
つまり、アウトプット側では有能感と自律性が満たされているのに、その裏側で、インプット側の自律性と有能感が静かに蝕まれていく。幸福感の基盤が、この「選んでいない側」から崩れていくんじゃないかと思うのです。私が文章を書いていて気が滅入っていたのは、たぶんこれだったんですよね。

等速の時間は、自律性を取り戻す時間
そう考えると、シンポジウムでの丸一日の意味が見えてきます。
等速で人の話を聞くというのは、いわば強制的に余白のあるインプットをする時間です。認知的な余裕があるから、そのまま深く聞き入ってもいいし、聞きながら関連する情報を手元で調べてもいいし、質問を考えてもいい。あの日の私は、久しぶりに「聞き方を選べていた」んだと思います。その小さな選択を一日中積み重ねていたからこそ、終わったときに自律性の感覚が回復していて、頭がすっきりし、アウトプット欲が湧き、本を一行ずつ読むという選択も自然にできたのではないかと。
定期的にこういう時間を持つのは、正直大変です。走り続けるしかない構造は変わらないし、大抵のことは高速化でうまくいく。ただ、それだけだとハマってしまうことがある。バランスが崩れると、バーンアウトの方向に進んでしまう感覚があります。
だからこそ、自分の仕事を振り返るときのレンズとして、アウトプットとインプットの両方について、「自分で選べているか」「有能感を持てているか」という観点で点検してみることが大事なんじゃないかと思いました。アウトプットは順調でも、インプットの側で「ペースが自分を決める」状態になっていないか。私自身、これからも時々、意識的に等速の時間を作ってみようと思っています。
というわけで、今日は等速で聞くことの効果について、歩きながら考えてみました。もし「自分もスキミングばかりになってるな」とか「こういうリセット方法があるよ」みたいな話があったら、ぜひSNSでシェアして、コメントで教えてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!