こんにちは。今日も歩きながら、最近考えていることを話してみようと思います。ちょうど夏休みということで、小学生のみなさんは宿題の真っ最中だと思うんですよね。で、今年あたりは「宿題にAIを使うのはアリなのか」という話が、あちこちの家庭で出ているんじゃないでしょうか。実際、文部科学省が学校向けに出している生成AIのガイドラインでも、読書感想文や日記を夏休みの課題として出す場合の留意事項がわざわざ書かれているそうです。今日はここから、AIとの付き合い方の話をしてみます。
小学生の自由研究と学術論文、やっていることは似ている
自由研究も日記も、AIに頼めば一瞬で答えが出てきます。「小学生っぽい文体に直してください」と言えば、それらしい文章にもなる。そうなると、「そもそもそういう宿題に意味があるのか」という話になってきますよね。
ただ、これは小学生に限った話ではないと思うんです。大学生のレポートもそうでしょうし、もっと言えば、私は今この年になって研究の世界に入ってきたのですが、学術論文を書くときにもAIは普通に使われています。
もちろん、両者には大きな違いがあります。夏休みの宿題は先生が丸を付けて終わりかもしれませんが、学術論文は他の研究者から徹底的に批判的な吟味を受けますし、求められる厳密性のレベルも違う。それでも、情報を集め、観察し、分析して、自分なりの考えを書くという基本的な流れは共通しています。人類の知の最先端であるはずの学術研究と、小学生の自由研究とで、AIを使う場面の構造には共通する部分がある。だとすると、これは「子どもの教育」だけの問題ではなく、AIを活用するすべての人に共通する問題として考えたほうがよさそうです。

アウトプットは簡単に出る。では、能力は?
そういう観点で大人の世界を見てみると、AIによって、成果として認められるアウトプットが、いとも簡単に出せるようになったという現状があります。
象徴的な話があって、アメリカの大学では、AIの助けを借りることで学生の評価が全体として上昇する「成績インフレ」が問題になっているそうです。カリフォルニア大学バークレー校の研究センターが公開したレポートでは、ある州立大学の50万件を超える成績データを分析していて、ライティングやコーディングなど、AIが役立つ課題の多い授業では、ChatGPT登場後にA評価の割合が大きく上昇していたとのこと。面白いのは、AIがほぼ役に立たない口頭発表の課題では、成績に目立った変化がなかったと言われている点です。つまり、上がったのはアウトプットであって、能力が上がったとは言い切れない、ということが示唆されているわけです。
仕事の世界も同様で、AIを使うことで、エンジニアではない人がシステムを作れるようになるといったことが起きています。それによって「自分にもできるんだ」という有能感の高まりを感じている人は、すごく多いと思うのです。
ここで考えたいのが、その有能感は本物なのか、ということです。
「本物の有能感」と「偽物の有能感」
あえて極端な見方をすると、有能感には「本物」と「偽物」があると考えたほうが良いと思っています。
偽物の有能感とは、他者から評価されるアウトプットは出たものの、自分の能力は1ミリも変化していない状態です。極端に言えば、アウトプットが評価されたことによって、自分が有能になったような気がしているだけのもの。
本物の有能感とは、そのアウトプットを出すプロセスを通じて、必要な知識や能力、スキルが向上した状態です。極端に言えば、AIがなくても、時間をかければ自分でそのアウトプットを出せるようになっている。
もちろん、大半の場合はこの両極端の中間に位置します。その中で一番多いのは「AIをうまく使えばアウトプットを出せるようになった」という状態だと思いますが、これはどちらかというと偽物に近いのではないか、と私は思っています。そして、なるべくそれを本物に近づけていくことのほうが、最終的には本人の幸福につながるのではないか。これが私の今の仮説です。

本物に近づけるための戦略としての「自己決定理論」
なぜ幸福の話になるかというと、心理学の自己決定理論が背景にあります。人の幸福やモチベーションを支える基本的な心理欲求として、「自律性」「有能感」「関係性」の3つを挙げる理論です。この理論を踏まえると、AIとの付き合い方の戦略は、この3つをより良い状態にする使い方をする、ということになります。
例えば、エンジニアではない人が、AIに聞きながら日々の業務を自動化する仕組みを作る、という場面を考えてみます。AIの言うとおりに進めれば、とりあえず動くものはできてしまう。ただ、中身を理解しないまま職場でそれを使い続けるのは、まず自分が気持ち悪いし、危うい。エラーが出たときに自分では直せないのでAIに丸投げすることになります。ほんとに直ったのかどうか、次はエラーは出ないのかどうか、自分では判断できません。
ここで大事なのは、AIに丸投げしたのではなく、AIを使って、自分ができるようになったという感覚が残るかどうかです。作業自体は、これからもAIにやらせると思います。それでいいと私は思います。ただ、自分は仕組みを理解できるようになっていて、次はAIを道具として使いこなせる、という感覚があるかどうか。
この感覚を積み上げていくのがAI活用で、この感覚がないままアウトプットだけを出し続けるのがAI依存だと、私は考えています。仕組みを作っているのはAIではなくて自分で、AIを道具として使えるという感覚があれば、「自分は仕組みを作れるし、結果に責任を負える」という有能感が高まる。そして、たとえAIを使っていたとしても自分のアウトプットに自信があるから、自分の意志で動ける。つまり自律性が高まります。そうやって世の中に働きかけてアウトプットを出し、問題を解決していく先に、いろんな人との関係性が広がっていく。
こういうことが出来るようになるには、少し前までは、超優秀な人たちが集まる場所に若い頃から所属できたとか、素晴らしい先生や先輩に出会えたとか、極めて恵まれた環境にいる人にしかできないことでした。それが、AIの登場によって、誰でもその環境に身を置けるようになった。そう考えると、AIというのはとんでもないツールなのだと思っています。

まとめ:3つの問いで振り返る
というわけで、今日は夏休みの宿題から始まって、AIとの付き合い方の線引きまで、歩きながら考えてみました。仮の答えとしては、こういう目安になります。その使い方によって、自分の本物の有能感は上がるのか。自律性はより高められるのか。そして、その先で良好な関係性を築いていけるのか。
この3つの問いは、夏休みの宿題に取り組む小学生にも、論文を書く私にも、同じように当てはまりまるのではないかと思っています。
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