こんにちは。今日は休憩時間を使って、朝に読んだ新聞記事から考えたことを話してみようと思います。日経新聞に「死んだら堆肥にしてください」という記事が出ていて、これがなかなか興味深かったんですよね。
下水と堆肥にギョッとした
記事で紹介されていたのは、二つの新しい葬法でした。
一つはコンポスト葬。わらなどを詰めたカプセルに遺体を収めて温度管理をすると、二、三カ月で堆肥になるそうです。アメリカでは14の州で合法化されていて、事業としても動き始めている。
もう一つがアルカリ加水分解葬。高温高圧の容器に遺体を入れて溶かし、下水として流すという方法です。
読んでいて、正直ギョッとしました。特に下水のくだり。遺体が汚物と一緒に流れていくのか、と。堆肥のほうも、自分の体が段々と朽ちて堆肥になるイメージが浮かんでしまって、うわ、と思った。
でも、冷静に考えると変なんですよね。今だって火葬されたらいくつかの骨は拾うけど、大半の遺骨・遺灰は廃棄に回ってるのでは?と思いますね。堆肥だって、樹木葬とかにするならやっていることは大差ないかもしれない。
理屈では説明がつかない。じゃあ、あのギョッとは何だったんだろう。

日本には、そもそも「選び直す」余地がない
考えてみると、日本では遺体の弔い方に、実質的な選択肢がありません。火葬率は99.9%を超えているそうで、全員が同じ一本道を通る。樹木葬や散骨や墓じまいといった変化はいろいろ起きていますが、あれは全部「火葬したあと」、つまり遺骨をどうするかという話です。火葬そのものの手前に、分岐は存在しない。
面白いのは、土葬の扱いです。土葬は法律で禁止されているわけではないんだそうで。そして、ほんの数世代さかのぼれば、土葬のほうが普通だった地域はいくらでもある。それなのに、今「土葬にしたい」と言う人がいたら、多くの人がギョッとするんじゃないでしょうか。
つまり私たちが驚いているのは、新しいか古いかではないんですよね。一般的な方法から外れること自体に驚いている。コンポスト葬にギョッとしたのも、伝統がどうという話ではなくて、全員が通る道に「別ルートがある」と言われたこと、それ自体への驚きだったんだと思います。
アメリカでは「自分の死に方」を選び始めている
一方、堆肥葬が生まれたアメリカでは、状況がまるで違うようです。
アメリカはもともと土葬の国でしたが、いまや火葬が6割を超えて主流になり、さらに水火葬(アルカリ加水分解葬)や堆肥葬といった「エコな死後」を選ぶ動きが広がっているそうです。背景の一つとしてよく挙げられるのが宗教離れで、ピュー・リサーチ・センターの調査によれば、キリスト教徒と自認する人はこの十数年で78%から62%まで下がり、世代別に見ると、若い世代ほどキリスト教徒と自認する割合が低いそうです。ここ数年は低下が一服していて、若い世代の信仰回帰を指摘する声もあるようですが、世代交代とともに「教会の物語」を当たり前には受け取らない人が増えてきた、という大きな流れは言えそうです。
ただ、面白いのはここからで。同じ調査で、アメリカ人の大多数は、肉体とは別に魂のようなものが存在すると信じている、とも答えているそうなんです。教会には行かなくなった。でも、魂はあると思っている。つまり、魂の「行き先」だけが宙に浮いている。
これ、二つの力が同時に働いているんだと思います。
一つは、供給側の変化。教会という共同体が配給していた「死んだらどうなるか」という物語が、手に入りにくくなった。でも魂の存在は信じたままなのだから、物語の需要は消えていない。行き先のない魂を抱えた人が、大量に生まれている。
もう一つは、需要側の変化。個人主義がさらに進んで、「自分にしっくりくる死に方を選びたい」という欲求そのものが立ち上がってきた。用意された答えでは満足できない。生き方を自分で選んできた人たちが、死に方だけ既製品で済ませる理由はない、というわけです。
日経の記事に登場するnanowaプロジェクトの小野梨奈さんが、死んだら土として地球の一部になるのは自然なことで、そう思えると死への恐怖も薄らいできた、と語っていました。今の時代、自分で選び取った物語は、たぶんちゃんと機能する。

日本でも「お盆の物語」は消えつつある
では、日本はどうか。
昭和の半ばくらいまでは、日本にも配給された物語がありました。死んだら先祖になって、お盆には家に帰ってくる。だから盆には親族が集まり、迎え火を焚いて、墓参りをする。物語と習慣がセットになって、回っていた。
でも今、その習慣のほうが先に痩せてきています。お盆に帰省しない人は増え、墓じまいは珍しくなくなった。習慣が消えれば、それに支えられていた物語も維持できません。「死んだら先祖になる」と素朴に信じている人は、もうかなり少ないんじゃないでしょうか。
そうすると、日本もいずれ「自分の死に方を選ぶ」フェーズに入っていくはずです。ただし、アメリカと同じ形にはならないと私は思っています。
日本の定食屋って、A・B・Cくらいの選択肢が多いじゃないですか。あれ、けっこう絶妙で。「お好きに組み合わせてください」と言われた途端、どうすれば良いかわからなくなる。全部自由と言われると、かえって不自由を感じる。
だから日本の場合は、火葬という一本道はしばらく変わらないまま、その先が定食化するんじゃないかと予想しています。A:伝統的なお墓、B:お寺の永代供養、C:樹木葬や散骨といった自然葬。このくらいの分かれ方で、大半の人はどれかに収まる。そのうえで、「いや、そもそも火葬が時代遅れでしょ」ということで、水葬や堆肥葬を選ぶ人も少しずつ出てくる。そんなところではないでしょうか。
自分の死に様を、しばらく探すことになりそうだ
ここまで書いてきて、最後に自分のことを考えてみたんですが。
実は私、火葬って個人的にはあんまりピンときてないんですよね。一人で狭い所に入れられて焼かれるのやだなーという気がしている。あらためて「あなたにしっくりくる方法ですか」と聞かれると、うーん、となる。かといって、堆肥になるのも水に溶けるのも、似たようなものに思えてしまってまだピンとこない。
つまり私は、配給された物語をもう素朴には信じていないのに、自作の物語もまだ持っていない、という宙ぶらりんの状態にいるわけです。たぶん、同じような人は多いんじゃないでしょうか。
だとすると、自分なりの死に様を、これからしばらく探すことになりそうです。そしてこれ、考え始めると気づくんですが、死に様を考えることは、結局どう生きるかを考えることと地続きなんですよね。この話はまた、別の日に歩きながら考えてみたいと思います。
みなさんは、自分の葬られ方を選べますよと言われたら、嬉しいですか。それとも、ちょっと困りますか。もしこの記事が面白いと思ったら、ぜひスキやフォロー、SNSでのシェアをいただけると嬉しいです。コメントで感想も聞かせてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!