こんにちは。今日も鴨川沿いを歩きながら、考えごとをシェアしようと思います。
鴨川って、歩いていると本当にいろんな人がいるんですよね。ランナーが一人で黙々と走っていて、その横で学生たちがペタンク(フランス発祥の、金属球を投げて的に寄せるゲームです)に興じていて、少し先ではご老人が二人でラグビーのパス練習をしている。楽器を練習している人もいれば、ただ座って川を眺めている人もいる。同じ河原に、ぜんぜん違う活動が同居している。
この光景、いいなあと思って眺めているんですが、今日は「なんでいいなあと思うんだろう?」というところから、ゆるく考えてみたいと思います。
「幸福な街」の解像度を高めるのが難しい
私は大学のプロジェクトで、地域の幸福度調査に関わっています。この仕事をしていて難しいなと思うのが、「幸福な街とはどんな街なのか?」という定義をクリアにすることです。幸福度を測って政策につなげようとするなら、この解像度をどう高めるかが勝負なのですが、これがなかなか一筋縄ではいかない。
しかも最近、ますます難しいなと思う出来事がありました。シカゴ大学の大石繁宏先生の講演を聞いたのですが、そこで、幸福には人生への満足や意味に加えて、新しいことや奥深いことを経験し続けている状態——心理的豊かさ(Psychological richness)——という第三の次元があり、それはデータでも結構明確に出てくる、という話をされていました。
第三の次元がデータで明確に出てくるということは、つまり、幸福観はばらつくということです。個人差も大きいかもしれない。満足を重視する人、意味を重視する人、経験を重視する人。そうなると、「幸福な街」を一つに定義するのは、やっぱり無理筋ということになる。
そこで最近考えているのが、定義を一つに決めるのを諦めて、「こういう街なら幸福度が高いと読んでもいいのではないか?」という見方(レンズ)を複数用意して、レンズごとに実態を細かく見ていくというアプローチです。一枚のものさしで測るのではなく、何枚かのレンズで多面的に眺める。

「経験の選択肢」というレンズで見てみる
では、どんなレンズがありうるか。大石先生の話では、経験は幸福の重要な要素(第三の次元)だということでした。なので今日は、この「経験」を一つのレンズとして考えてみたいと思います。すなわち、「多様な経験の機会が、その街にどれだけ用意されているか」というレンズです。
新しい経験をすることが幸福の中核にある人にとって、街というのは、いわば経験の舞台です。舞台に用意されている演目が多いほど、その街は幸福に暮らせる場所になる。演劇も音楽も食も学びも、みんな演目です。
その中で、私が特に注目したいのがスポーツ・身体活動の選択肢です。
なぜかというと、スポーツって、幸福にとって妙に「効率の良い」経験だと思うからです。自分で選んで参加する。練習すれば少しずつ上手くなる実感がある。一緒にやる仲間ができる。心理学の自己決定理論で幸福に関係するとされる要素(自律性・有能感・関係性)が、一つの活動に自然に揃っているんですよね。おまけに体を動かすので、誰にとっても幸福の土台になる健康にも効いてくる。新しい経験として楽しめて、そこから人間関係や自信や健康にまで波及していく。一粒で何度もおいしい経験なわけです。

「これなら自分も」が必ず見つかる街
では、スポーツの選択肢が豊富な街とは、どんな街でしょうか。
私は二つの軸で考えられると思っています。一つは運動強度の軸。ウォーキングやペタンクのような軽いものから、ピックルボールやゴルフのような中くらい、ランニングやフットボール系のようなインテンシブなものまで。もう一つは集団性の軸。一人でできるもの、ペアや小集団でやるもの、チームが前提のもの。
この二軸のマップがまんべんなく埋まっていて、それぞれの場所に種類も豊富にあること。これが「選択肢が豊富な街」の姿だと思います。誰であっても「これなら自分も参加できる・楽しめる」というものが必ず見つかると良いですね。体力に自信がない人にも、一人が好きな人にも、ワイワイやりたい人にも、それぞれの居場所がある。
マップが埋まっていることには、もう一つ良いことがあります。人生の中での「移動」がしやすくなることです。歳を取るというのは「スポーツを辞めること」ではなく、マップの上を移動することなんじゃないかと思うんです。若い頃はインテンシブ×チームの象限にいた人が、歳とともに、軽めの象限や小集団の象限へスライドしていく。
「こういうのもあるよ」が届いてくる街
ただ、選択肢がマップ上に存在しているだけでは、たぶん半分です。もう半分は、その選択肢が本人にちゃんと届くかどうか。
「こういうのもあるよ」という情報が、いろいろな経路から入ってくるようになっていると良いと思うんですよね。市の広報のような公式の経路だけではなくて、友人から人づてに聞く。イベントや試合を観戦する機会がある。そして、ふと街中で目にする。
その意味で、スタジアムが街中にあることも、非常に有意義だと思っています。最近の広島や長崎のような、街の中心部にスタジアムを置くまちづくりの方向性は、まさにこの文脈に沿っていて、良いなあと感じます。日常の動線の中にスポーツ観戦があると、「観る」から「やってみる」への距離がぐっと縮まるはずです。
そう考えると、冒頭の鴨川の光景の意味も、もう一段はっきりしてきます。あの開けた河原は、活動の場であると同時に、「こういうのもあるよ」を通行人に見せる舞台でもあるんですよね。私が学生たちのペタンクを見て「ああいうのも面白そうだな」と思ったのは、まさにあの河原が情報の経路として機能した瞬間だった。活動が屋内に閉じている街と、外に見えている街とでは、選択肢との出会いやすさがぜんぶ違ってくる。私が鴨川を「いいなあ」と思っていた理由は、幅の広さと、その幅が見えることの、両方だったのだと思います。

京都の調査で見てみたいこと
というわけで、今日は鴨川の光景から始めて、「幸福な街」の解像度を高める難しさ、「経験の選択肢」というレンズ、そして選択肢が届く経路の話まで、歩きながら考えてみました。
私はいま京都市の幸福度調査に関わっているので、せっかくなら、このレンズで何が見えるか試してみたいと思っています。活動の選択肢の幅と、住んでいる人の幸福との間に、何か関係は見えるのか。まだ思いつきの段階ですが、進捗があればまた考えをシェアしたいと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!