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ブログ歩きながら考える

2026.7.29

「AIを使いこなせる子」なんて、本当にいるのか? – 歩きながら考える vol.340

渡邉 寧 | 京都大学博士(人間・環境学)

今日のテーマは、学校におけるAIの使い方について。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題をラジオ感覚で平日(月~金)毎日お届けしています。

こんにちは。今日も歩きながら、最近考えていることを話してみようと思います。先日、夏休みの宿題とAIの話を書きましたが、書き終えたあとも、その根っこにある問いが頭に残っていたんですよね。AIを使うと、人は考えなくなるのか。今日は自分自身のAIの使い方を振り返るところから、この問いを考えてみます。

同じ「AIに任せる」でも、中身がまったく違う

まず、私自身の話から。

私は研究計画をつくるとき、AIをかなり使っています。アイデアを投げてみたり、仮説の論理におかしなところがないか確認したり、分析方法を相談したり。このとき、自分が考えなくなっている感覚は、まったくないんですよね。むしろ逆で、使えば使うほど論点が広がり、思考が深くなっていく。情報整理をAIに任せて浮いた頭を、もっと高度な判断や発想に使える。AIに一部を任せることで、課題の中にさらに深く入っていく感覚があります。

一方で、本当にやりたくない提出書類をつくるときにも、私はAIを使います。こちらは全然違う。必要な情報だけ渡して、「とりあえずそれらしい形にしておいて」と頼む。出てきたものを最低限確認して、問題がなければ提出。できれば自分は、その書類についてほとんど考えたくない。

外形的には、どちらも「AIに文章をつくらせている」点では同じです。でも、起きていることは正反対なんですよね。研究計画では思考に深く入るために任せ、提出書類では思考から離れるために任せている。

AIは、人と課題の関係を増幅する

じゃあ、この違いはどこから来るのか。

最初は「好きな仕事か、嫌いな仕事か」の違いかと思ったんですが、それだけではない気がします。研究計画づくりにも、面倒な作業や苦しい思考はあるわけです。それでも引き受けられるのは、自分が実現したい研究につながっているから。一方、提出書類には、その先に自分が達成したいものが見えにくい。つまり違いは、作業が楽しいかどうかではなく、その課題の目的を自分のものとしているかどうかなんだと思います。

そう考えると、AIって人間の動機を変える道具というより、もともとその人と課題との間にある関係を増幅する道具なのかもしれません。目的が自分のものになっている課題では、より速く、より深く進むのを助けてくれる。意味を感じられない課題では、できるだけ考えずに終わらせるのを助けてくれる。AIが思考を深めるか、思考からの離脱を促すかは、AIの性能では決まらない。その人と課題の関係で決まる

で、これが正しいとすると、面白い帰結が出てきます。教育の話です。

同じ子どもでも、好きな教科ではAIでどんどん探究を深める一方、別の教科では答えだけ出してもらおうとする、ということが普通に起こるはずなんです。ありそうな話じゃないですか? つまり、「AIを使いこなせる子」と「使えない子」という分類自体が、そもそも成立しない。AIとの付き合い方は人に固定された能力ではなく、課題との関係ごとに変わるものだからです。

「使わせる/使わせない」では決められない

子ども単位で分類できないのだとすると、学校全体で一律に「使わせる」「使わせない」と決めることにも、「この子には許可、この子には禁止」と子ども別に決めることにも、原理的に無理があることになります。残る選択肢は、一人一人、さらには課題ごとに調整することしかない。

もちろん、個人情報を入力しない、AIを使ったことを隠さない、出力の正しさを確認する、といった共通原則は必要です。でもその先の、どのAIを、何のために、どこまで任せてよいのかは、その子とその課題の関係を見ながら決めるしかない。主体的に探究できる場面ではフルスペックのAIを渡した方がいいし、丸投げしやすい課題では、用途を限定したり大人が使い方を一緒に考えたりした方がいい。

「そんな調整、先生の負担が大きすぎる」と思われるかもしれません。そこは、前回書いた「AIの使い方をメンタリングするAI」のような仕組みが、調整の材料を提供してくれる可能性があると思っています。

ここまで考えると、学校でのAIの議論って、単なる利用規制の話ではないんですよね。一人一人の子どもについて、AIと学習との関係を設計する。これは、いわば「超個別化された教育」を考えることと、ほとんど同じです。共通して身につけてほしい知識や能力があることと、そこに至る方法まで全員同じにすることは、別の話。AI時代に問われているのは、AIを導入するかどうかではなく、全員に同じ道具を与え、同じプロセスで学ばせるという、一斉教育の前提そのものの終わりをどうするかということなんだと思います。

大人にも、調整は要るのかもしれない

と、ここまで子どもの教育の話をしてきたんですが、これ、大人にも少し当てはまる気がするんですよね。

私が提出書類を丸投げするのは、目的を自分のものとして持てていない課題が職場にある、ということです。構造としては、子どもが嫌いな教科で答えだけ求めるのと同じ。だとすると、大人のAI利用にも本当は「人×課題」ごとの調整があった方がいい。ただ、大人には調整してくれる先生がいないので、自分のAIとの付き合い方をときどき振り返って、自分で調整していくしかないのかな、と思います。

まあ、提出書類くらいは丸投げでいいのかもしれませんけどね(笑)。みなさんは、AIとの付き合い方、課題によって変えていますか?

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著者プロフィール

渡邉 寧YASUSHI WATANABE

慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡りマーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い。 経歴と研究実績はこちら

プロフィール詳細

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