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今日のテーマは、教育現場で生成AIを禁止すべきか、という問題について。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題をラジオ感覚で平日(月~金)毎日お届けしています。
世界はいま「禁止」へ動いている
まず、この動きはノルウェーだけの話ではありません。記事を読んでいると、世界が一斉に「禁止」の方向へ舵を切りつつあることがわかります。
学校でのAI使用禁止にいち早く踏み切ったとされるのが中国で、政府系の英字紙チャイナ・デイリーは2025年5月、中国政府が小学校での生成AIの使用を禁じる指針を発表したと報じました。興味深いのは、教員が試験問題の作成や学生の評価などに使うことも禁止している点で、つまり生徒だけでなく先生の側まで縛っているわけです。アラブ首長国連邦(UAE)も2026年2月、13歳未満の生徒のAI使用を禁止する指針を出しています。
しかも面白いのは、これがAIだけの話ではないこと。北欧諸国では、紙の教科書への回帰が始まっています。フィンランドのリーヒマキ市は2024年から市内の全中学校でデジタル教材を減らし、紙の教科書に戻したそうです。デジタル化の先進国が、いま逆向きに動いている。一方で日本国内を見ると、先生の長時間労働をどう効率化するかという文脈もあって、どちらかというと「AIをどう教育現場でうまく使うか」を検討し始めようとしている段階に見えます。世界の潮流とは、ちょっとタイムラグがあるのかもしれませんね。

なぜ「AIに頼ると危ない」と言われるのか
では、なぜ禁止という強い手段に出るのか。その背景には、人間の脳の根本的なクセがあります。
心理学に「認知的倹約家(cognitive miser)」という概念があります。社会心理学者のスーザン・フィスクとシェリー・テイラーが1984年に提唱した考え方で、人間の脳は限られた認知資源を効率的に使うため、できるだけ思考のコストをかけないようにできている、というものです。すごく平たく言うと、人間はもともとサボるようにできている。機械や道具に任せられると思った瞬間、私たちはそこに認知的なリソースを割きたくなくなるわけです。
この傾向、実はAIが初めて突きつけた問題ではありません。Googleの検索が登場したときにも、同じことが起きました。コロンビア大学のベッツィ・スパロウらが2011年に発表した有名な研究、「Google Effects on Memory」では、後で情報にアクセスできると思っている人は、情報そのものを覚える割合が下がり、代わりに「どこを見ればその情報があるか」を覚えるようになることが示されました。いわゆる「グーグル効果」です。記憶という認知機能を、私たちはすでに検索エンジンに外部委託するわけですね。これを「認知的オフロード」と呼びます。
生成AIが厄介なのは、ここからです。検索エンジンに預けられたのは「記憶」でした。でも生成AIには、調べることや覚えることだけでなく、考える・分析する・まとめるという、人間の知的活動のかなりの部分まで預けられてしまう。認知的倹約家の原則からすれば、当然そこに頼るようになる。すると、人間の脳の中で認知機能が育つ機会が減っていく——理屈の上では、そう想像できてしまうわけです。

縛るべきは「入口」ではなく「出口」だ
さて、ここからが今日いちばん話したいところです。
「認知発達のためにAIを禁止する」——この理屈は、わかります。でも、私はこの全面禁止に、どうしても引っかかるものがあるんです。なぜなら、AIが最初に見せてくれた可能性を、まるごと閉ざしてしまう可能性が有るから。
AIが出てきたとき、私がいちばん可能性を感じたのは、「優秀な家庭教師が、誰の隣にも、極めて安価につけられるかもしれない」という未来でした。これまでなら、本当にお金持ちの家庭でしか得られなかった手厚いチュータリング。それが民主化されるかもしれない。教育格差の一因が、AIによって埋まるかもしれない。その可能性を、入口での全面禁止はつぶしてしまわないか。これが私の懸念です。
そこで考えたいのが、発想の組み替えです。縛るべきなのは、AIを使う「プロセス全体」ではなく、「評価される場面」という一点だけでいいのではないか。
具体的にはこういうことです。学習している最中は、AIを使ってかまわない。むしろ積極的に使うことも検討して良い。けれど、最終的に実力が問われる出口の場面では、AIの助けを断つ。テストでAIを使えない状態を、強制的に作る。そうすると、たとえそこに至る学習でAIを使い倒していても、最後の最後に自分の素の力が問われるとわかっているから、自分の力を上げるためにAIの支援を得るという姿勢に自然になる。親や教師も、それを前提に支援する。結果として、認知的オフロードが起こらない形のAI活用が成り立つかもしれない。
そして、ここで私はもう一つのことに気づきました。この「出口だけは変えない」という姿勢、実は保守主義そのものなんです。かつて電卓を試験に持ち込むかどうかが議論されたように、AIも、少なくとも試験ではAIは使わせない。その一点は動かさない。けれど学習のプロセスは「AIを使う」方向で変化を希求する。全部をガラッと変えるのではなく、足場を一つ残して、残りを動かす。急進的な変化を避けて漸進的に改善していくという、保守主義の考え方は、ここに完全に重なります。

では、その「出口」をどう設計するか
思想として立てたところで、最後に「で、具体的にどう設計するの?」という話をしておきたいと思います。二つ、ポイントがあると考えています。
一つ目は、評価の機会を日常に溶かすこと。年に数回の特別な試験日を作るというより、日々の小テストも含めて、授業は「実力を出す場」と考える。ハレの大舞台ではなく、ケの日常の中に、AIなしで自分の力を出す瞬間を細かく埋め込んでいくイメージです。
二つ目は、学習プロセスの最適化。ここはAIの独壇場です。学び方や進め方には、一人ひとりに合ったやり方があるはず。常にAIが「学習パートナー」として横に寄り添っている状態——これは学習環境として、かなり理想的だと思います。
こうして見ると、世界が動いている「禁止」も、ただAIを悪者として排除しているわけではなく、急進的な変化を一旦止めて、慎重に検討しようという保守主義的なシフトなのだと、私は信じたいんですね。AI悪玉説ではなく、漸進的な導入の仕方への転換。日本も同じように、保守主義的でかまわないから、AI活用のポジティブとネガティブの両面を少しずつ見極めながら、いい形を探っていければいいんじゃないかと思っています。
ただ、正直に言えば、「出口さえ守れば本当に認知能力は守られるのか」——これはまだ誰にもわかりません。エビデンスはこれから。だからこそ、全面禁止か全面活用かと急いで決めてしまう前に、この「出口を縛る」という第三の道を、もう少し丁寧に検討してみる価値があるんじゃないか。そんなことを、歩きながら考えていました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。この記事が少しでも面白い・役に立ったと思ったら、ぜひいいねやフォローをしてくれると励みになります。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!
著者プロフィール
渡邉 寧YASUSHI WATANABE
慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡りマーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い。 経歴と研究実績はこちら。
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