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ブログ歩きながら考える

2026.6.16

学校の先生はもっとAIを使うべき? – 歩きながら考える vol.310

渡邉 寧 | 京都大学博士(人間・環境学)

今日のテーマは、学校の先生とAIの関係について。このシリーズでは、筆者が街を歩きながら、日々の気付きや研究テーマについてのアイデアを語っていきます。ふとしたタイミングで浮かんだアイデアや、知的好奇心をくすぐる話題をラジオ感覚で平日(月~金)毎日お届けしています。

こんにちは。今日も歩きながら、最近考えていることを話してみようと思います。きっかけは、6月1日の日経新聞で見かけた、AIが大学教育に問いかけるものについての記事。高等教育でのAI活用についての話だったんですが、これを読んで、職場のAI活用も難しいけど、教育現場はもう一段難しさがあるなと感じたんですよね。今日はその話を、ゆるく考えてみたいと思います。

先生はオーバーワーク、なのにAI活用は進まない

今、私は教職員の幸福度調査のプロジェクトに関わっていて、その中で今年は学校の先生のAI活用についても話を聞いてみようと思っているんです。

なんでかというと、学校の先生って、今、オーバーワークが大問題になってるじゃないですか。書類の作成とか、採点とか、文書仕事がとにかく多い。で、文書仕事って、AIを入れるとめちゃくちゃ効率が良くなる可能性があるわけです。

だけど、学校の先生のAI活用って、正直なかなか進みにくいという話をちらほら聞くんですよね。

これ、「先生は頭が固いから」とか「技術に疎いから」みたいな説明をされがちだと思うんですけど、私は、もっと本質的な難しさがあるんじゃないかと思っています。

先生の躊躇は、むしろ誠実な反応かもしれない

先生たちには、これまでのやり方で積み上げてきた教育効果への確信があるんだと思います。そこにAIを代替させるということが、ピンとこない。「それは本当に良きことなんだろうか」という感覚がある、という話を結構聞きました。

で、この感覚、私は、かなり正しいんじゃないか?と思うんです。

なぜなら、学校でのAI活用は二重構造になっているから。職場なら「自分の業務をどう効率化するか」で話が完結しますが、学校では、先生自身がAIをどう使うかという話が、「これからの子どもたちはAIとどう付き合っていくべきか」という教育内容の問いと切り離せないんですよね。だって、先生が日常的にAIを使っている姿を見せながら、「君たちは使っちゃダメ」とは言いにくいじゃないですか。「先生は使っていいのに、なんで僕らはダメなの?」と聞かれたら、答えに詰まる。先生のAIの使い方そのものが、子どもたちへの一つのメッセージになってしまうわけです。

そして、「子どもたちはAIとどう付き合うべきか」という問いには、まだ誰も答えを持っていない。使い方によっては、認知力が育成されないということにもなりかねないわけじゃないですか。全部AIに投げて、全部AIに聞けばいいや、みたいになっちゃうと。実際、最近の研究でも、この懸念を裏付けるような結果が出始めているそうです。例えば、MITメディアラボのグループがプレプリントで発表していた研究では、ChatGPTを使ってエッセイを書いた人は、検索エンジンだけ使った人や道具なしで書いた人と比べて、脳の活動のつながりが最も弱かったんだそうです。研究チームはこれを「認知負債(cognitive debt)」と呼んでいるとのこと。

どういう使い方なら子どもの発達を妨げないのか。その答えが出ていない状態では、教師自身がどうAIを使うかも連動して決まってこない。だから先生たちの躊躇は、頭が固いんじゃなくて、教育の専門家としての誠実な慎重さなのかもしれない、と思うわけです。

「外せない教育原則」に立ち戻る

じゃあ、答えが出るまで何もできないのかというと、そうでもないと思っていて。

一つ思うのは、「これだけは外せない」という教育原則があるのであれば、そこに立ち戻ってAI使用のあり方を考える、ということじゃないかと。

で、私が思うに、何かを学んだとか、何かができるようになったという実感って、やっぱり自分の頭を最大限に使ってアウトプットを出すことから来るんですよね。作文を書く、計算して自分なりの答えを出す、感想文を書く、論文を書く。何でもいい。とにかく自分の頭を必死に使って何かを出す。そして、それに対してフィードバックが来て、自分の考え方や時間の使い方を振り返る

この繰り返しによって、考える力、表現する力、ものを感じ取る力が育まれていく。私はそういう感覚があります。

アウトプットの形は人によって違っていい。文章かもしれないし、数式かもしれないし、プログラミングかもしれないし、ダンスや音楽かもしれない。大事なのは、必死になってアウトプットを出す時間が確保されること。そして道具は、自分のアウトプットを最高で最大のものにするために使う。決して楽をするためじゃない。道具をうまく使っている人は、それをわかっているんですよね。突き詰めたいから、もっと良くしたいから、道具を使う。そういう捉え方なんじゃないかと思います。

保守的でいい。でも、排除はおかしい

この原則を踏まえると、話を層に分けて考えられそうです。

まず、書類作成のような、子どもの学びに直接触れない事務作業。ここは効率化そのものが正当な目的で、むしろ躊躇する理由が薄い領域だと思います。オーバーワークの解消のために、どんどん使えばいい。

難しいのは、考えて何かを生み出す領域です。教材づくりとかですかね。でも、ここでも判断基準は持てるんじゃないか。それは「楽になるかどうか」ではなくて、AIを使うことで子どもへの関わり方がどれほど良く変わるか、そしてその活用を通じて教師としての自分自身の成長感を得られるか。つまり、先生自身が、自分の教育的成果を最大限効果的なものにするための手段として、納得できる形でAIの使い方を手探りで探っていく、ということなんじゃないかと思います。

教育におけるAIの活用は保守的であっていいと思います。でも、保守的であることと、完全に排除したり全く手をつけなかったりすることは、別の話です。先生たちの慎重さを「誠実な専門的判断」として擁護するなら、その慎重さは「触らない理由」ではなく、自分の教育原則に照らして検証しながら使っていく責任につながっていくはずです。その手探りの先に、先生のAIの使い方も、子どもたちへの教え方も、おのずと見えてくるんじゃないか。そんな気がしています。

というわけで、今日は学校とAIについて、歩きながら考えてみました。この記事が少しでも面白い・役に立ったと思ったら、ぜひいいねやフォローをしてくれると励みになります。また次回の「歩きながら考える」でお会いしましょう!

著者プロフィール

渡邉 寧YASUSHI WATANABE

慶応義塾大学文学部/政策・メディア研究科卒業後、ソニー株式会社に入社。7年に渡りマーケティングに従事。約3年の英国赴任を経てボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。2014年に独立。2025年に京都大学大学院人間・環境学研究科にて博士号取得。専門は文化心理学、組織行動。最近の研究テーマはAIの社会実装 × 職場の幸福感 × 文化の違い。 経歴と研究実績はこちら

プロフィール詳細

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